浜野弥四郎と八田與一と

アフガニスタンで、2019年12月4日、NGO組織のペシャワール会現地代表である中村哲医師が殺害された。中村医師は元々、パキスタンで医療活動を行ってきたが、その後、活動拠点をアフガニスタンに移し、医療活動を行ってきた。その中で貧困が続くアフガニスタンで「医者がいなくても生きられるが、水なくしては生きられない」と考え、干ばつを解消するための水利・灌漑事業に取り組んだ。2000年以降に掘削した井戸は約1,600本、用水路は総延長25キロメートルにも及ぶ。中村医師はアフガニスタンの農村復興に多大な貢献をし、現地で中村医師の名前は多くの人に知られる。しかし、日本では殺害事件でその名前と活動を知ったという人がほとんどだろう。

台湾でも日本統治時代、多くの日本人が、その発展に貢献してきた。台湾では有名であっても日本ではほとんど名前が知られていないという日本人がいる。台湾が人気旅行先のトップ3に入るようになり、台湾に対しての関心が高まっていることから、知られるようになったのが台南で世界最大のダム (建設当時)を作り、灌漑事業を行い、干ばつの問題を解消し、豊かな穀物が実る地域にした八田與一氏だ。

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烏山頭ダムに置かれている八田與一氏の銅像と八田夫妻の墓

しかし、八田氏は当初、マラリアをはじめとする伝染病予防対策のため衛生事業に従事。嘉義市・台南市・高雄市といった南部地域の上下水道整備を行っていたことはあまり知られておらず、その時の上司であった浜野弥四郎の影響を受けていたこともあまり知られていない。また、その浜野弥四郎の名前も日本ではほとんど知られていない。

現在の台湾大学医学部付属病院 (台大医院)、当時の大日本台湾病院の院長だった医師であり、養父でもあった浜野昇氏から、浜野弥四郎氏は「人間の健康と都市環境は密接な関係にある。都市インフラに必要なのは清潔な飲料水と新鮮な空気、緑地空間」との教えに影響を受け、台湾で都市インフラの整備に従事した。台湾の首都・台北の水道は東京よりも早くできた水源であり、台湾の衛生面の向上に大きく貢献した。

台湾総督府土木部時代、八田與一氏は浜野弥四郎氏の部下となり、台南水道建設のための事業調査を行う中で、浜野弥四郎氏から技術や考え方を学び、それが後の嘉義から台南におよぶ嘉南平野を潤すための烏山頭ダム、そして15万ヘクタールの農地に張り巡らされた1,600キロメートルの用水路の整備に結びついた。

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八田氏はフィリピンへ調査に向かう船が撃沈され殉職。妻の外代樹さんは後を追いダムで投身自殺した

台南水道が完成した際、八田與一氏は浜野弥四郎氏の銅像を建てた。残念ながら、浜野氏の銅像は戦時中、金属供出令で撤去されてしまった。しかし、後にABS樹脂で世界一となった奇美実業の創業者で台南出身の許文龍氏が像を新たに作り、水源地に設置している。

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奇美実業創業者の許文龍氏が不幸な目に遭った銅像を二つとも復元

また、その功績を讃え、烏山頭ダムに設置された八田與一氏の銅像は戦時中の金属供出令の際、地元の農民が隠し、戦後、再度設置したが、台湾に遷都してきた国民党政府から取り壊しを命じられたため再び、撤去、隠された。1981年、元あった場所に再設置されたのだが、2017年、前・新党の台北市議会議員で、現在は中華統一促進党に所属する親中派、統一派の李承龍氏が銅像の首を切断するという事件が発生。ここでも許文龍氏が自身が所有する八田與一像の複製品を使って、即座に修理。現在も像はダムを見下ろすところに置かれている。

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八田與一氏の銅像は今も自分が手がけたダムを見ている

 

八田與一氏の功績は台湾の歴史教科書「認識・台湾」から記載されるようになっており、現在の教科書にも詳細が記されている。しかし、その上司であった台湾水道の父、浜野弥四郎氏やその養父の浜野昇氏についてまでは記載されていないだろう。

台湾には現在の台湾人だけでなく、我々、現在の日本人も知らない、しかし知ってほしい歴史がある。観光地と食べ物だけが台湾ではない。

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